こんにちは☺
今回は、ちょっと何を言っているのかわからないと思うかもしれませんが、笑
この言葉を使うと、差別的な意味があるから使わない方がいい!って、言われるけれど、
本当は、その言葉を使うかどうかよりも、差別意識があるかどうかの方が大事じゃない?!
ってことについて、考えてみたいと思います。
〈参考:障害のある子どもの支援はなぜ保育の原点と言えるのか〉
何と言ったらいいのかな?
その言葉じゃなくて、こっちの方がいい!みたいなことを言われても、
こちらは全く気付いてもいない!ということがあってね。
その言葉を使っても差別意識がない人が居ることと、言葉は選ぶけれど、世間の差別意識があるのは変わらないという感じ?!
なんだかモヤモヤするんだよね。
その言葉を使うと差別を連想するし、特定の人に対してのみ使っているとか言われても、
差別というよりも、わかりやすい言葉をただ選んでいるだけってことがあって、、
考えすぎなのと同時に、大事なことは別なところにあるんじゃないかって。
その考えすぎ意識が、言葉選びだけで終わってしまい、ずっと差別意識は変わらないままってことに、返ってなっていないかなって。
差別意識が明らかにあった時こそ、
その人に説明なり、正しさなりを教えるのは必要です!
特に、子どもの間に。
その人が大人だったら、もう手遅れというか、かなり考えを変えるのは難しいと思ったりはしますが、子どもならまだ十分修正が可能です。
大人になる前に、差別はなぜ悪いのかを定着するまでよく教えること!
の方が、よほど言葉選びよりも大切なことのように思えるんだけど、どうだろうか。
意味わからないかも苦笑
また、少し似た話で、、
障害のある人という場合と、
障害を持つ人という場合を比べると、
障害というのは、
何かをしようとしたら、何かが妨げになって出来ない事、
それが障害だという事だとすると、
障害のあるだと、その意味に当てはまる。
でも、障害を持つだと、本人自身の一部分が障害そのものという意味になる。
言葉自体の意味合いが全然違ってしまうから、
それは気を付けたいと思う。
なので、例えば、
障害の害の字ですが、
碍であったり‟がい”ってひらがなであったりにするって考えがありますが、
どちらでもいいように思います。
それに変えることで、
仮に差別行動が減ったとしても、
差別意識は変わらないんじゃないかな?という疑問があります。
行動は減るけれど、心の内に潜ったまま、修正される機会もなくなるんじゃないかなって。
そのような状態だと、何かがきっかけになると、突然差別意識が表出するってあると思われ、
差別意識はあるけど、上辺は無いように振る舞っているってことになり、どうなのかなって。
大切なのは言葉や漢字選びではなく、差別意識が無くなること、差別は悪い事という概念じゃないかな?というお話でした。
〈参考:障害のある人が居ない社会は、本当にいい社会なのか?!〉
最後まで、言葉選びと差別意識をお読みいただき、誠にありがとうございました。
子どものみかた
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